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無敵の作家

 思うに、円城塔って文学的評価という点において無敵なんじゃないだろうか。
 無敵というのは、読んだ全員が楽しめるということじゃない。amazon のレビュー欄では実際つまらなかったっていう人がいるわけだし。今言ってるのは「自分に合わない」と感想を述べることはできても「ストーリーがつまらない」と批判することはできないということ。
 読んだことのある人ならわかるだろうが、円城作品はとにかく読みづらい。自分はもはや初見で理解するのはあきらめて、三周することを前提に読んでいる。しかし回を重ねると、見過ごしていた会話に隠された新たな意味や、結論を踏まえることで違って見える描写などが発見できて、段々面白くなってくる。これはそもそも文学だなんだという前に数学を下敷きにして書かれているからで、数学的な思考の帰結と経過を、修辞と比喩、婉曲表現をパラメータにして円城塔李久さんに文字起こしを頼むと、あの長ったらしいけどどこかノスタルジーと含蓄に富んだ小説が出力される。で、含蓄に富んだってのが厄介な部分で円城塔李久さんは含蓄に富みすぎて一般人では簡単に取捨選択できない次元になってくる。ただしこれは全然小説の価値を損なうものじゃなくて、むしろ言葉遊びのように色々な意味が取れること自体に面白さを見出すことができる。こんなにわざわざ婉曲にわかりにくく書かずにもっと普通に、一般的とされる書き方をするべきだ、という意見が的外れになるのはここに原因があって、この発言をした人はストーリーとか、びっくりする仕掛けとか、いわゆる「物語」を読みに来たのだろうが、そもそも円城作品は「物語」じゃなくて言葉遊び(どこかで日本語の揚げ足をとる作家、とか評されていた)を楽しむことが前提になかったのだと思う。いつか、贅沢というのは時間を浪費するから贅沢なのだ、という論評をみたけど、そういう意味で言えば円城作品はかなりの贅沢だと思う。わざわざ遠回りした表現を使うことで、何重にも意味がとれて、何回でも読みなおせるから。
 ちょっと話がずれたが、結局円城塔が文学的に無敵だと思うのは、大事なことは隠しておくのがデフォルトだから全然面白くなくても、必ずどこかに「自分が読み取れていないだけなんじゃないか」という不安が付きまとうからである。これが例えば伊坂幸太郎とかなら「ストーリーの立て方が悪い」とか「オチがつまらない」とか批判することはできる。しかしもう何回も繰り返してきたようにあの円城塔である。もし円城塔の作品を一覧にして書評するサイトがあったら、つまらないと思った作品でも「これはちょっとわからなかったですねー(笑)」とかいう感想でさらっと流して終わるんじゃないかと思う。実際このブログにもある。多分「これはつまらないですね。駄作」と一刀両断する感想は出てこないと思う。
 ただし批判されないのと評価されるのは違うことであって、小説界(SF界ではなく)から一定の支持を得ているのは純粋に小説が面白いからで、ただよくわかんない小説であるだけなら無視されて終わるだけである。つまり円城塔は批判されないしその上面白いというもうATフィールド全開!なエヴァ初号機がさらにロンギヌスだかカシウスだかの槍を持っているのに等しいわけである。
 ながながと書いてきたがこの記事の結論は一つ。  self reference engine を読もう。